書くさむらいの道をえらぶあなたへ|司法書士 大崎晴由先生|東京法経学院

司法書士 大崎晴由先生 書くさむらいの道をえらぶあなたへ

大崎晴由先生



profile
1968年司法書士試験合格。翌年司法書士開業。愛知県司法書士会に入会して名古屋支部長、副会長などを経て現在にいたる。不動産法律セミナーにて「春夏秋冬/卓上日記」を好評連載中。

1 あすなろう精神で描く夢

 あなたは初めて聞くかもしれない「日本司法書士会連合会」(司法書士資格を得て登録手続をして業務を行うため強制入会が義務づけられる都府県ごとの司法書士会(北海道だけは3会ある)を統括する組織団体で司法書士法に定めがある。以下「日司連」といいます。)が,次期司法書士法改正をねらって「改正大綱素案」を策定して平成21年10月30日に公表したと伝えられます。
 その素案の幾つかには成文法上の弁護士職能に限りなく近似する自画像ビジョンを創り出そうとする「願望」がちらついていると私は感じました。その実現のための優先順位と到達目標が明らかではないだけに,この制度に好意と関心を寄せる人が,真剣に考えるには戸惑いがありはしないでしょうか。界内で生きる私ですら「夢のまた夢」を思いつき的にあれもほしいこれもほしいとねだる駄々っ子のような「改正大綱素案」には同調しかねるものの,司法書士界の首脳部が未来ビジョンとして何を描こうとしているかの推慮はできます。これから司法書士資格取得に挑戦するあなたの切磋琢磨のエネルギーになれば,それはそれで参考になるかもしれません。
 素案の項目をいくつか挙げてみましょう。

 (1)名称を「司法士」にする。(2)総本山を「日本司法書士連合会」にする。(3)登記供託申請代理事件調査確認義務を独占する。(4)業務全般に関連する法律関係書類の作成権限を明示する。(5)簡裁管轄事件全ての代理権を獲得する。(6)簡裁受任事件で獲得した債務名義による金銭債権に対する執行代理権を付与する。(7)全ての筆界特定代理権を付与する。(8)仲裁代理権,和解の仲介手続を実施する。(9)簡裁刑事弁護人となる。そのため試験科目に刑事訴訟法を加える。(10)業務範囲の事案の相談権を獲得する。(11)司法書士資格者を簡裁代理関係認定者のみとする。(12)司法書士照会制度を導入する。(13)業務範囲外営利業務の届出制度を創設する。(14)自主懲戒制度を導入するetc.です。
 威勢のいい項目が並んでいますが,そこには隣接する法律専門職との棲み分け共生思想がみられない「明日はひのきになろう」精神の翌桧(あすなろ)のように究極的には司法書士の弁護士化を志向するというのでしょうか。
 職業アイデンティティをめぐる最近の司法書士界の動向の一つとして注目したいところですが,四半世紀以上をこの職業に生きてきた私は考えこんでしまいます。
 例え話として現在の司法書士制度を2階建の建物に見立てましょうか。
 構造はもともと平家建として設計されていて,その種類はといえば,その昔から伝統的に1階の母家が三庁(裁判所,検察庁,法務局)提出書類作成事務用です。昭和戦後になって徐々に増設されたのが登記代理・供託代理・審査請求代理用です。
 すがた形がよく見えると内外から評価される2階部分は,平成15年4月1日以降に法務大臣が(いずれも訴訟物の価額が裁判所法第33条第1項第1号所定の140万円を超えないものに限定して),簡易裁判所における民事訴訟代理,起訴前和解代理,民事調停代理,民事紛争における裁判外和解代理の仕事ができる能力のあることを認定した者の特定の仕事場用に増築された専有部分です。
 2階増築部分は,これまで民事訴訟代理人イコール成文法上の弁護士オンリーの司法制度のもとで,訴訟手続代理人の選択肢が一つ増えたことに平均的利用者は歓迎ムードのようです。もっともスタートして数年程度の実績しか有していない現在,認定司法書士の役割意識,社会的機能を評価するにはまだまだ試行錯誤の経験を重ねて実績を積む必要がありますが,「司法書士資格者+特定代理権認定者」の活動領域が広がったことは注目に値します。
 司法書士が,訴訟代理人・和解代理人として,そもそも生まれも育ちもちがう弁護士職と丁々発止の法廷活動ができる仕組みができたことは,職業選択に悩む法学徒に新しい法律実務家としての魅力とやり甲斐のある複眼思考の道を開いたことを意味します。法律家意識を高揚できることに加えて,バイパスルートで「疑似法曹」(真性法曹とは司法試験合格と司法修習が条件)の地位を謳歌できることになります。
 このために界内格差ともいうべき分化現象が起きるのは不可避ですが,同一制度内に生きていながら「資格内資格者」という二層化構造を作ったことは,認定組と未認定組に職分のちがいが歴然としたことで,心理的にも両者間の連帯・協調・帰属意識に微妙な影を落としている印象があります。
 素案レベルとはいえ,上述の法改正大綱をまとめた背景には認定司法書士だけに付与される職域レパートリーをいっそう拡大し,かつ特権化することによって,同じ法律実務家でありながら資格仕分けで上下左右を選別しかねないビジョンです。
 レパートリー(分野)ごとではなく,スケール(規模)ごと「大企業」(成文法上の弁護士)「中小企業」(成文法上は隣接法律専門職)に色分けして,自らを後者に位置づけようというのであれば少々
考えものです。
 法科大学院(ロースクール)卒による資質が高く学習歴の豊富な大量の弁護士群(大企業)の強力な攻勢の前に,わずかな義務的講習と引換えに大臣から能力担保を保証された認定司法書士(中小企業)がはたして太刀打ちできるでしょうか。

2 過去の上に現在があり現在を土台に未来を拓く

 自らが属するギルド社会の過去経験に想定された職業評価の概念に,まったく関心を寄せないで思い込みの自己評価をすることを指して「仮想的有能感」と名付ける速水敏彦氏(教育学)の言葉に,今現在制度の内側で生きている私は,これから生きようとするあなたとともに耳を傾けたいと思い
ます。
 氏曰く「現代人の多くが他者を見おろしたり軽視することで無意識に自分の価値や能力に対する評価を保持したり高めようとしているがやっかいな代物である。現実には負け組になりそうな人々が生き抜くための必須の所持品であるが,他者軽視によって社会にさまざまな弊害を生じさせる懸念がある」(「他人を見下す若者たち」講談社現代新書・118頁)。
 元始,司法書士の属性が「書くさむらい」(イギリス連邦諸国のソリシター(事務弁護士)にちなみ和製ソリシターと私は自称している)であったことを想えば,登記供託事務にせよ,裁判事務(検察庁提出書類を含む)にせよ,常に他の追従を許さない密度の高い専門的知見が滲む独自の事務能力とは何か,を考えてその特性を日常的に錬磨すべきが第一順位の仕事であると考える私は,基礎工事が脆弱な2階部分の増築建物は見栄えがよくても,まさかの地震に倒壊のリスクがつきまとうように,幻想的エリート意識に自己陶酔しないように留意することが肝要です。
 私には平家建設計の建物の1階の住人であるという自意識があります。
 登記原因証明情報,本人確認情報の提供をはじめ,本人訴訟支援のために,下は簡易裁判所から上は最高裁判所まで,弁護士と肩を並べても遜色のない質の高い書類作成を第一義にすることをモットーにすべきであると考える私は,実際にはてっとり早いマニュアル書式に依存できる範疇の事務レベルにとどまっていては,軟弱な基礎の上でする2階の仕事は真に本人支援の法律家としての成果が得られるだろうかという思いがあります。

 1階の仕事が不十分なまま,そこに内在する諸課題をないがしろにして,果して2階以上の業務を拡充できるでしょうか。すでにその養成制度と社会的地位を確立している弁護士職能と同じ分野の仕事を競合的に志向するのは不遜なことであると私は思います。その前に現行法3条1項1号乃至5号の業務の中にまだまだ未完成,未成熟な分野の仕事を開拓して自己の体質を鍛える仕事がいっぱいあります。
 書面主義法律家であるというルーツを忘却して謙虚さを失っては,決して利用者から信頼される法律家として処遇されないのでありませんか。
 その意味では現在の法制上の職域に殉じる意気と実践なくして,どれだけ大きなアドバルーンを上げても,所詮は中身が空っぽな風船でしかないとみられては返す言葉がないことに気づかされるのです。
 認定・不認定の区分によって二層化する司法書士制度の将来はどうなるのか,今こそ強固な自画像を構築すべきであると思いますが,前述の「改正大綱素案」は同じヒノキ科に属するも「桧」と
「翌桧」は異なる樹木であることを混同していないでしょうか。このビジョン論に自分の将来を重ね合わす錯覚はしたくない。「改正大綱素案」は司法書士界の主な潮流ではないことだけは認識し ておきたいものです。


3 職業アイデンティティーの拡散

 ここでつらつら考えるのは「職業アイデンティティー」の問題です。
ご承知のとおり数年前に「CI」(コーポレートアイデンティティー)を競う社名変更がはやったことがあります。たとえば「山田輸入木材加工販売株式会社」を「株式会社YAMADA」と商号変更することが競争社会における新戦略であるというのですが,その戦法が奏功しているかどうかは定かではありません。
 前述の日司連の法改正大綱では,いの一番に「司法書士」を「司法士」に呼称変更をしようと画策しているようです。改名推進派は,職名に「書」という文字が冠記されているのが古くさいとか,時代にそぐわないとか,世界語に翻訳できないとかの理由を並べていると仄聞します。
 推進派が「書くこと」の意義をどう認識しているのか理解しかねますが,筆・ペン・タイプ・ワープロ・パソコン・インターネット・オンラインという,道具=ツールないし情報リテラシーの次元で主張するとすれば軽薄な発想ではありませんか。
 自己の思想とか主張を表現すること,発信すること,伝達する内実の,質的な面を考える視点が欠けていないかということです。ツールが変わるから名前も変えようというのはアイデンティティーを誤解していないでしょうか。
 仮に立法府から改正議案の趣旨説明を求められたときにはどう答弁するのか,想像するだけでも赤面しそうです。政府提出法案か議員提出かで議員諸侯にその必然性とか効用を説得できる自信と腹案はあるのでしょうか。
 しかしながら,あなたのように若くて未来ある世代が「司法士」のネーミングが良いというならそれでいいではないかと,もの分かりのいい大人風情を示すのは世代の責任放棄であって,歴史と伝統と社会的影響を真剣に考えているのかという気がしてなりません。そんな妥協しやすい大人像をこそ私は批判したくなります。
 「アイデンティティー」とは,要するに「自分」ということについての意識と内容を表している自己を証明するもの,たとえば,不動産登記規則72条に列挙される運転免許証,旅券などその人の生い立ち(生年月日・性別)を知り,そのルーツ(本籍・住所)を知ることによってその人が何者かを確定することであるといわれます。
 司法書士の「職業アイデンティティー」という場合は,制度の成り立ち,そのルーツを知ることによって,司法書士とは何かを確立することでしょう。その自意識がしっかり固定していて,社会の現実の中での相対的な自分を認識していたのは平成14年改正法前の司法書士でした。
 ところが平成15年春に改正法が施行されたとたんに,法律家であるという自意識が鮮明になり,誇大的な自分,全能で完全な自己を夢想して,法律実務界の中でナルシシズムに耽る傾向を強めることになります。
 日司連とその傘下の単位司法書士会の事業展開を見るに,これまで在野法曹の戦士としての弁護士の多くが社会現象の矛盾に気づいて,コツコツと耕してきた公益的事業の数々を器用に取り込んで,まるで瓜二つの社会貢献事業施策(高齢者虐待防止,自死対策,人権フォーラム,地域司法拡
充対策,企業法務推進対策,犯罪被害者支援,派遣労働者対策など)を掲げていることに背伸びのし過ぎを感じます。
 その費用対効果による「社会寄与度」はしばらく置くとして,職業アイデンティティーを限りなく弁護士職能に近接しようとしているかに見えます。
 先達の良い業績を真似て自己変革に結びつける善意は認めるとしても,ビジネスライクな功利追求主義をカムフラージュする専門家ポーズをして法律トラブルの「パイ探し」をしていないかとい
う疑念を禁じえないのです。
 そういう傾向のなかで促成栽培された訴訟代理人(裁判外和解代理人)として,認定司法書士であることを武器に多重債務者救済の騎士を装い,広告宣伝に努めて弱者救済ビジネスで過剰な利潤を得るとすれば「そもそもの司法書士ルーツ論」に鑑みるに,職責とか職業倫理の面から許しがたい偽善行為ではありませんか。
 所得隠し容疑で司直の捜査を受け,マスメディアでその非違行為を糾弾され,挙げ句の果てに監督官庁の行政処分を受けた事例が公告されるのを見聞するにつけ,目にあまる私益第一主義現象は改正法の期待に反する所為であることを認識してかかる必要があります。マスコミの「ほんのひと握りの認定司法書士の悪行」報道によって,真摯に仕事に勤しんでいる絶対多数の司法書士の信用が傷つき,その失地回復のためにこれから先どれだけのエネルギーを要するかに思いをはせるのです。
 ルーツ論的にいえば,明治5年に時の司法卿である江藤新平が主導して制度化した代言人・代書人・公証人の三者の役割ははっきり区別されていました。
 民法に先立つ明治19年の旧旧不動産登記法は徴税目的が色濃い性格をもっていましたが,所管は裁判所ではあったものの,非訟事件の範疇に属する不動産登記の外部要員は官吏出身の代書人,ついで司法代書人,そして司法書士と呼称は変わったものの,その絶対多数は司法書士が担ってきました。
 確かに法制上は法律事務の担い手が弁護士に専属しているとの見解に同意するとしても,登記事務の担い手は司法書士に特化していたのは紛れもない事実なのです。
 忘れてはならないのは,司法書士制度の原点ともいうべきルーツは不動産登記の担い手であったことです。
 ところが平成14年改正法で一定の法律事務への関与が認容されたことによって,司法書士の職域はいっけん拡大したかに見えますが,私の個人的な体験では,その多くは収益性の面ではバーチャルニーズ(幻想的需要)なのです。訴額の小さな法律トラブルにあっては金銭的な収益性を度外視してボランティア精神を発揮しなければ,とうてい取り組めない仕事であることを心に刻むことが大切な気がします。
 それゆえ,職業アイデンティティ論にいえば,司法書士の職業理念は統合どころかますます拡散の一途をたどっているようにみえます。
 伝統的な汎登記・供託事務とその申請代理,そして汎裁判事務は,そこにリアルニーズ(実際的な需要)があります。利用者の信頼も築かれています。
 ところで,急激な社会構造の変化による時代の趨勢に即応する法律実務家として,司法書士職能に簡裁訴訟代理人,成年後見制度における後見人,不在者・相続財産管理人,遺言執行者,任意後見契約における受任者,信託法上の受託者などに一定の参画を期待する声が寄せられています。
 個々の司法書士自身もこのようなウイングを広げようとする志向を強めようとすることは社会貢献につながる奉仕的業務に位置づけられましょうが,新しいニーズに取り組めば取り組むほど,伝
統的な職域,従来の専管領域を超えかねないことに自制ブレーキが求められます。そのことを十分に自覚して臨めば,これらのボランティア活動は,司法書士自身の法律家魂を発揮する絶好の場になることはまちがいないと思います。

4 夜明け前の歴史的な判決

 昭和52年1月18日。松山地方裁判所西条支部は弁護士法違反に問われた被告人司法書士に対して画期的な判決を言い渡しました。
 司法書士法に目的と職責規定を新設する立法化一年前のことでした。私を含めて心ある司法書士は小躍りして喜んだものです。宗哲朗裁判官(当時)の名前から「宗判決」と名付けられ,世代から世代に語り継がれてきました。
 その事件の控訴審判決では,職業的評価は後退を余儀なくされましたが,その当時の法曹界の権威の前に強行法規である弁護士法72条が聳えているかぎり一審判決をそのまま維持することを期待するのは無理でした。
 それにしても胸をすくような判旨は,後の司法制度改革審議会の論議に影響することになって制度史上に刻まれる判決であると認識しています。
 その判旨は「…けだし,法治国家においては,国民が啓蒙され一定の法律的知識ないし常識を有していることを建前としているが,現実は個別具体的事件について国民一般の法律知識は全く乏しいものといわなければならず,たとえば裁判所提出の書類作成を依頼するにしても単に表面的機械的に事情を聴取したうえでは何をどのように処理して貰いたいか全く不可解なことも多いのであり,これを聴取してその意を探り,訴えを提起すべきか,併せて証拠の申出をすべきか,仮差押,仮処分等の保全措置に出るべきか,執行異議で対処するかを的確に把握し,その真意にそう書類を作成するについて法律的判断がなさるべきは当然であるからであり,このような判断を怠って,いたずらに趣旨曖昧不明の書類を作成して裁判所に提出させることをすれば却って裁判所の運営に支障を来すことは明らかであり,とくに弁護士の数が少ない僻地ではかようにして司法書士が一般大衆のために法律問題について市井の法律家として役割を担っているのである」(判例タイムズ351号212頁)といいます。
 それから数えてざっと25年後。平成14年改正法では,試験科目に憲法が課せられ,認定というハードルを課して曲がりなりにも簡易裁判所の訴訟代理権を付与する旨の立法が成った訳です。
 正にローマは一日にして成らずという諺のとおり,19世紀後半に誕生した司法書士制度は3世紀目に入ってようやく「法律家らしい姿」を見せることになりました。しかし,だからといって個々の司法書士の職業人としての資質がこぞって一挙にリーガルマインドを身につけた法律家に変身したと断じるのは早計でしょう。
 ところで大臣認可にかかる司法書士報酬は平成15年3月31日に幕を閉じましたが,その変遷をみれば往時の司法書士の仕事ぶりが想像できましょう。典型的な所有権移転登記と訴状(答弁書・準備書面等)に限っても,1,2年おきの小刻みなわずか百円単位の改定率です。何故こんな規律が必要なのかが解せないまま,一介のヒラ会員である私としては,不当請求とか不当廉売と疑われて懲戒処分を受けることをおそれて,耐え難きを耐えて忍従一途に仕事をしてきましたが,監督官庁側には利用者に司法書士の報酬は「公共料金」であることを位置づける意図があったのでしょう。
 かならず事務所内に掲額される報酬表では,昭和47年12月26日法務省民事三発第1192号通知における所有権移転登記の報酬は,一律3000円(課税価格100万円まで)から5400円(同1000万円まで)と定められ,裁判事務等の作成文書は文案を要するものは一律正本1枚800円,文案を要しないものが1枚200円でした。
 目的・職責規定が新設され資格取得の第一順位が国家試験に移行した昭和54年10月17日民事三発第5222号通知でさえも,所有権移転登記は一律9000円(課税価格500万円まで)から10800円(同1000万円まで),文案を要する書類は正本1枚2300円,要しないものは1枚550円でした。
 もっとも裁判事務には「基本報酬」という名の付加報酬があったものの雀の涙という程度でした。
 平成15年4月1日以降に司法書士登録をした者には想像だにできないかもしれませんが,その前日までに司法書士であった者には多かれ少なかれ,この報酬基準の下で業務を行ってきたことは紛れもない事実です。
 その特徴は,@昭和47年以降わずかに知的生産代価的「基本料」の概念が導入された。A昭和53年改正法のもとでも事案の「難易度評価」は考慮されなかった。B専ら定型的・類似的な事件の量産主義的執務によってしか収入増を図る方法がなかった。C法律家として主体的な判断をして裁量権を発揮することは禁止されたままであったことが指摘できようかと思います。
 さればこそ「銀行詣で」「不動産業者との提携」志向の金融がらみ不動産取引に伴う定型登記の受託を歓迎する司法書士が増加することになった訳です。その路線は現在も業務体質として延々と続いている「不変性」が気になります。
 たとえば,債権額100万円の抵当権設定登記の報酬は平成15年3月31日までは約1万9000円でした。ところが債権額が100億円では約79万円の報酬額になります。分譲マンション(専有部分が百戸として)で三つの担保権登記をたのまれると天文学的な報酬額になります。正に大量受注万歳ではありませんか。「万」か「億」かの漢字のちがいだけで報酬額格差が生まれたのです。
そ んな登記報酬システムに魅力を感じてどっぷり浸かって「いい湯だなあ〜♪」気分を満喫したごく少数の司法書士が,日本列島改造論とか土地バブル景気に酔いしれた時代もあったようです。
 そのエピソードに尾鰭がついて「司法書士業は儲かる」という風評につられて司法書士資格をめざす若者が大勢いたと昔ばなしをする長老もほぼ姿を消しつつある現在,ことの真偽を確かめることができないほどに歴史的事象が風化しつつあります。書き伝え読み伝える史家不在による歴史の空自を放置しておいてもいいのでしょうか。ここにこそ司法書士という職業人が昭和53年改正法による1条(目的)と1条の2(職責)規定創設をもってしても,さむらい意識を高らかに掲げるリーガルマインドを血肉にすることができない一因が隠されているようです。
そ れは制度の内側で執務をする司法書士自身だけの責任に帰することはできないと思います。わが国の司法制度の中では常に傍流的存在であり,先の司法制度改革審議会ですら「(弁護士)隣接法律専門職種」という言葉で一括りにされた実務家の役割以上の地位を与えられることがなかったという歴史を背負ってきたことを看過してはならないと思います。
 さらに監督官庁は昭和戦前までは地方裁判所,新憲法下では法務省という行政官庁に所管替えがされたものの,最近とみに公表(官報公告)される懲戒処分事例を見れば分かるように「司法書士はれっきとした法律家である」と自称してみても,監督権の行使は平成時代はじめに社会全般が事前規制から事後規制型に変わったこともあって,自己責任の追及は緩和されるどころか,むしろ強化される傾向にあります。
 自立,自律,自主の精神をないがしろにしてはならないのですが,今も,40年前も同じような強圧的な監督規制に抑えられています。職能の変革を覚醒できないまま自浄作用を発揮しかねているスローテンポぶりに業を煮やす監督官庁の焦燥感が見てとれるようで,高度情報化社会における伝達リテラシーのデジタル化とインターネットの利用を促され,生身の人間同士の信頼関係が薄くなってきて,利便と効率と私益優先主義に身を転じることが本流とされ,人間性悪説に立たなければ仕事ができない付き合いができないというのは,なんとも生きにくい世の中ではありませんか。
 個人情報保護法とか,消費者契約法とか,犯罪収益移転防止法とかの社会法に加えて,民商刑の基本法の改変スピードが早すぎて,情報伝達ツールと,束縛感を増やす法令の数々に,私自身があたかも首輪でつながれた飼い犬まがいの人間に見えてくるのは哀しいことです。一体全体何が人生の目標なのかが分からなくなって錯乱状況のもと鬱心理状態に陥ることもあります。そんなネガティブな感情になるのをハネ返すような人間的バイタリティこそがこれからの司法書士に期待されるところです。

5 水が低きに流れるように

 昭和55年10月1日施行の民事執行法は,旧競売法と民事訴訟法の強制執行に関する条項をセットして誕生したことはご存じのとおりです。
 債務名義による強制執行に関する規定は丁寧にできていますが,問題は債権者優先主義の担保権実行による不動産競売の手続規定です。
 物的債務名義と識者がいうとおり手続開始決定を求めるために,一番良く利用されるのは本登記された抵当権や根抵当権の記載がある登記事項証明書による競売申立てです。債権証書を添付する規定がないのですから極度額1億円の根抵当権設定登記を経由した後,債務者に500万円を貸しておいて,債務者が蒸発するのを見届けて第三者提供の不動産の実行手続に着手するとします。請求金額は9000万円でございますと称しても申立書が通式であれ裁判所からばクレームはつけられません。だから,債務者にしても担保提供者にしても,担保権設定行為をして登記手続を司法書士に委任する場面でよほど慎重にしなければ,いったん開始決定がされて差押登記がすんでしまうと,債務不存在とか登記無効の抗弁をするにも本案訴訟で争う前に執行停止の手続を先行しなくてはならない。そのためには高額な保証金を供託しなければならない。それが用意できなければ売却によって配当意義の訴えを起こさない限り債権者は丸儲けするばかりです。
 登記代理人となる司法書士のなかには,銀行詣でに親しむとか,金融債権者とねんごろになると,無意識のうちについ債権者のペースに乗せられてしまいがちです。
 担保設定の入口では,ある程度は不動産登記法に関心を払っても,実行段階の出口論である民事執行手続上の債務者に思いを馳せることは少ないようです。
 試験科目に僅か数問しか出題されない民事執行法の知識では,金融債権者に配当異議訴訟の被告になる可能性のことまで説教するだけの自信がない。ひたすら頼まれた登記処理に集中する執務ぶりが,実をいえば,平成22年の現在でも延々と続いているのではないかと私は疑っています。
 ここまでいえば,お分かりでしょうが,昭和53年改正法,平成14年改正法の下で生きる司法書士は法律が期待するほど自意識の変革はできたのだろうかと疑いの目で見つめています。
 確かに平成14年改正法では試験科目に憲法が加えられて,旧法10条(業務範囲を越える行為の禁止)が削除されて,法務大臣認定による簡裁代理権が付与されて,今や(上限額の制限があるとはいえ)民事分野では弁護士並に職域が拡大されたのですが,例の消費者金融会社を相手どる過払金返還訴訟において,真に被害者である原告の多重債務者のための法廷代理活動をしているかと尋ねれば,必ずしもそうとは断定できないようです。その実情はといえば「債務整理」という美名の下で,金融庁のガイドラインによる特権を付与された認定司法書士が返還義務者に受任通知をしたうえで取引履歴の開示を受け,ワンタッチソフトで自動計算した払い過ぎ結果をつきつけて,私的な示談交渉にかかわって過大報酬を得ることに腐心して,そのあげくに所得隠しが糾弾されるという醜聞がマスコミで批判されるという芳しくない現象が白日のもとにさらされています。そんな現象を汚れなき純真な学徒であるあなたに吐露することに胸が痛みます。それでも告白義務を感じるのです。
 それにしてもです。誘致解禁(旧法施行規則21条は不当な手段による嘱託誘致行為を禁じていた)を逆手にとって,批判の的にさられされるごく一部の弁護士並にいろいろな広告媒体を使って客引きする者がいるそうです。
 私の信条ではとうてい想像だにできないのですが,憲法上の納税義務もなんのその法律家らしからぬ司法書士があちこちに出没していると聞くと,思わず卒倒しそうになります。
 振り返ってみると,この職業の宿命的属性のためでしょうか。その時々の時世に流行するビジネスモデルに乗って私益を求める姿に「武士道」のような気高さがみられないのは遺憾千万であります。

6 さむらい精神の真骨頂

 名は体を表すという諺に倣えば,「現代のさむらいは書くという手段を用いて弱者(社会的,経済的,心身的,情報的)を保護するための法律をつかさどること,つまり,おおおやけの仕事を積極的に引き受ける」ことを旨とする司法書士職能のひとつのありようをイメージできようかと思います。
さむらい精神といえば,明治の国際人新渡戸稲造博士が英語で書いた「武士道」が世界的に有名です。
 徳川治世下,すなわち江戸時代の武士階級の生き方を観察しながら,博士は宗教的な倫理観の弱い日本人の精神的バックボーンを先進諸国に紹介したのでしょう。
 私が読んだ岬龍一郎さんの和訳による「武士道」の中につぎの文章があります。
 「武士道とは,武士が守るべき捉として求められ,あるいは教育された道徳的原理である。その最大の徳目は『義』である。さむらいにとって卑劣な行動,不正な振る舞いほど忌まわしいものはない。文字どおり義は正義の道理である。義をみてせざるは勇なきりというように『勇』と双子の関係にある。人の世におけるすべての立派な職業の中で,武士は,銭の勘定ごとと算盤は徹底的に嫌っていた。武士の徳としての『礼』は,ものごとの道理を正当に尊重することであり,金銭上の貧富の差を問うのではなく,いかにして人間として立派か,という心の価値にもとづく。礼の最高の形態はほとんど愛に近い。寛容にして慈悲深く,人を憎まず,自慢せず,高ぶらず,相手を不愉快にさせない。自己の利益を求めず,憤らず,恨みを抱かないものである。武士には嘘をついたり,ごまかしたりすることは卑怯者とみなされた。誠であるかどうかの基準は商人や農民よりも厳しく求められた。武士の教育において第一に求められたのは品格の形成であった。金儲けや蓄財を賤しむ。武士が倹約の徳を説いたのは事実である。だが,それは経済的な理由からではなく,むしろ節制の訓練だった。贅沢は人間を堕落させるための最大の敵とみなされた。どんな仕事に対しても報酬を払う今日のやり方は,武士道の信奉者の間では広まらなかった。何故なら,武士道は無報酬無償であることに仕事の価値があると信じていたからである。精神的な価値にかかわる仕事は,それが価値がないからではなく,金銭では計れない価値があったからである」私がいう「書くさむらいの道を選ぶ」のテーマ意識には,武士道流にいえば「司法書士道」というか,「司法書士学」(それは法社会学の観点からみて,司法制度上の法制の「建前と本音の乖離現象」をつぶさに調査・検証し,諸外国の法制と比較研究して,公権力の行使側に対峙して生きる国民の権利の守護者としての役割・機能の継続的な研究を通じて「学問」として昇華させるものである)ともいうべき課題意識があるようです。
 あなたは「今どき武士道をぶつなんて時代にそぐわない」とおっしゃるかもしれません。いくらなんでも武士だって食生活をしなければ餓死するではないかという指摘はもっともです。自らにハングリーな生活を強いていては,それこそ人のため世のためにも働けないというのはごく当たり前の話です。
 マックスウエーバー(20世紀初頭のドイツの思想家)が「隣人愛を媒介にした収益性」を職業の有用性の条件であると説いているように,あくまでさむらい資格者の品格としての心の持ちようとしての精神の気高さをいいたいのです。
あなたは司法書士の提供するサービスに関心を持つのはどんな分野の人たちであると思われますか。
 私の経験では,実際的な利害を有する人たちは自己の実益に資する範囲内で「有用と評価できる限り司法書士を利用する」のであって,司法書士自身も「ニーズに即応する法律実務専門家」と自己を定義して,つかず離れずの関係を保ってきたように思えます。
 しかしながらそのニーズは常に固定的ではありません。社会現象は刻一刻と変化していますから,そのときどきの司法書士ニーズの変化に応需できる実用知識と実務スキルを用意できなければ「賞味期限が切れた」商品並の役務サービサーとしか評価されないことです。そのことに常に神経質になりながら,新しいパイを探し求めるという戦略的な構図を用意する必要があります。昭和60年代をピークに司法書士一般に対するニーズは大量生産型の登記役務サービス業務でした。
 ここへきて認定司法書士が取り組む過払金返還訴訟,債務整理,同時廃止型自己破産,債務協定の民事特定調停など経済的な弱者救済支援役務サービス業務に取り組むのは職責上は価値ある仕事であると思います。ただし惜しむらくは高利金融会社を相手方にする過払金返還訴訟,債務整理の仕事だけは,相手方に返還能力があるうちは「美味しいロービジネス」かもしれないですが,出資法上の金利が低率化するとともに,甘い水を追いかける蛍のような振る舞いには私利を肥やす妙味はまもなく終焉するにちがいありません。
 そうだとすると,一億総地主志向のマイホームラッシュ時代の登記ビジネスにせよ過払債務整理ビジネスにせよ,長期的スパンでみれば,一過性が高い分野の仕事であることが分かります。
 「どっこい司法書士は生きている」と腰を落ちつけて,一時のブームに振り回されない法律実務家として構えるスタンスこそ多くの利用者が求めているというのが私の感慨です。

7 良い司法書士をめざそう

 あなたが「司法書士になる」こと自体,つまり司法書士資格を取得する道ははっきり見えています。基礎的な法律学の素養をペースにして,過去問・模擬問を精査しながら傾向と対策を練って,粘り強く受験勉強を重ねれば必ず栄冠を勝ち得ることができましょう。しかし「良い司法書士になる」のは受験勉強の成果のようには上手くいきません。「良い」評価を得るにはいくつかの規範があると思うからです。
 私見では,@利用者の目(強者・弱者),A組織社会の目(対内・対外),B監督官庁の目,C研究者の目,D自分自身の目等々から見た評価を総合して「良い司法書士」の査定ができると思っています。
 なかでも自分自身の目には,(1)人間として,(2)資格者として,(3)職業人としての三つの視点で自己評価する必要があります。
 満点をとるのが到達目標ではありますが,上昇志向とあすなろう精神を失わないことに加えて,常に脚下照顧と知足安分の心意気をもち続けることに尽きると考えています。
 あなたよりも先に司法書士という職業の道を歩んできた私としては,あなたが「書くさむらいの道」を選んで,それこそ良い司法書士になるために何かしら鼓舞できることはないかと,これからも考えながらあなたの道しるべ役を,そして昔むかしのエピソードの語り部の役を引き受けたいと思っています。ご精進とご成功を祈ります。