A.I さん(東京都)
「就職に役立つ宅建などを取ったらどうか」
という親の勧めもあり,大学4年のときに宅建資格を取得しました。その後,資格を活かすべく不動産会社に就職しました。また,この間には損害保険代理店の上級資格を取得しました。
「次は特級資格取得!」と意気込んでいたのですが,上司に「不動産会社なんだから特級資格は必要ない!」と言われました。
しかし,このままではいられず,不動産関係のもっと専門的な資格がないかと探していました。そんなとき,「○○先生にお願いしている土地の分筆登記の件はどうなってる?」という職場での会話を耳にし,はじめて調査士の存在を知りました。さっそく仕事帰りに,書店で調査士に関する書籍を読んでみたところ,「自分の探し求めていた資格はこれだ!」と思い,その書籍を購入しました。そして,調査士資格を早期に取得するためには,まずは測量士補資格が必要であることを知った私は,会社を退職する決心をしました。
その後,父の経営する建設業を手伝いながら,測量士補試験に合格しました。その頃は,調査士試験は簡単に合格できる試験ではないという認識をしていたつもりではいましたが,長期計画で学習すれば,そのうち合格するだろうという安易な考えでいました。そこで,会社勤めをしながらゆっくり勉強していこうと思い,別の不動産会社に就職しました。しかし,目指しているものとは違う仕事をすることに物足りなさを感じ,結局,就職と退職を繰り返す羽目になりました。こんな状況では,合格するまで時間がかかると感じ,受験勉強一本に徹することにしました。
4月から7月までのほぼ毎日,「調査士合格ノート」(東京法経学院)を独学で読み込みました。自分では,択一はそこそこ自信がついてきた頃でした。書式に関しては5月頃から求積の練習と,その他申請書が少しずつ書けるようになりました。はじめて臨んだ直前実戦模試は,約1,550名中670位程度でした。自分の力を過信していた私は,その結果に食事も喉を通らないほどでした。本試験で600名程度しか合格できないのに,模試でこの順位だと合格できないと思いました。とりあえずチャレンジした本試験も,当然"力及ばず"惨敗でした。
東京法経学院の本科(通学)に参加して,そのときに他の受講生の気迫に圧倒されました。
そして自分も負けないようにと,予習・復習に充分に時間をかけ,まんべんなく学習していました。毎回授業の始まる2時間位前から自分の座席を確保して,リラックスして講義に集中できるように努めました。気の合う仲間もでき,最初はお互い遠慮しがちだったものの,やがて,帰りに飲みに行ったり,学習方法や解りづらい条文の解釈について話し合ったりするようになりました。
この年からは,3月末から始まる実戦答練にも参加し,調子がいいときは50番以内,自信がなくても100番以内という成績が取れるようになり,時にはひと桁の順位のときもありました。また,択一問題の難しい肢なども,よく解説を読んだり,関係法令もよく学習し,自分なりの"まとめノードを何冊か作成し,書いて覚えるスタイルにしました。そして,今年は絶対合格できると確信して臨んだ2度目の本試験では,択一は全問正解したのですが,土地の書式で大失敗をしました。地積測量図の墨入れを終え,辺長等も全部書き上げ,見直すと,何と座標値のプロットミスが原因で土地の形状が大きく間違っていることに気が付きました。そこで,溢れ出る汗を拭いながら,書き直しました。実際のタイムロスはそれほど大きくなかったはずですが,動揺してしまい,建物の書式では,床面積の算定ラインでパニックを起こしてしまいました。その結果,床面積の表示・各階平面図・敷地権の割合等すべて間違えてしまい,建物は散々でした。当然,この年も不合格となりました。
2回目の不合格のショックから,きっとこの先いくら勉強しても合格できないのではないかと再受験をするかどうか迷っていましたが,一緒に勉強していた仲間がみんな不合格だったこともあり,何度も勉強スタイルなどについて話し合いました。そのおかげもあってか,また少しずつやる気を取り戻しました。
「次こそは」と心に誓った3年目の学習は,択一対策としては,自分のまとめノートを1日に2冊読み込むという方法をとりました。書式についてもイメージトレーニングを取り入れ,問題を見たときに,まず頭の中で作成する訓練をしました。この年のほとんどの実戦答練では,成績上位者に名前が載るようになり,1位も経験しました。そして,3回目の今回,ようやく合格することができました。
今思えば,私の合格は,励まし合いながら切磋琢磨できる仲間がいてくれたからだと思います。勉強仲間は,受験のライバルではなく,共に頂上を目指すかけがえのない"パーティーのメンバー"なのだと思います。
「高く険しい山は,一人では登れません。」
辛いとき,手を差しのべてくれる仲間や家族がいたからこそ,厳しい崖の中腹で下山してしまおうか迷ったときも,諦めないでまた一歩前へと踏み出すことができたのだと思います。
最後に,仲間もさることながら,時にはアドバイスや激励をくださった学院の先生や職員の方々の存在は,私にとってライフライン(命綱)であったことを,本当に感謝しています。